私はグラスを傾け、淡い金色の酒を舌の上で転がしてみる。私が注文したのは、この『Bar ファンタジア』という店では人気商品である『沖田総司』というカクテルで、スピリタスがベースのものらしい。私はその名前を見てなんとなく注文したのだが、どうやら私の口は気に入ってくれたらしい(ベースがベースなので、度数が非常に高いお酒で充分に注意して飲むようにと注文を取りに来た店員から言われたが、普段安いウォッカをだらしなく飲んでいる私にはちょうど良い塩梅だった)。
この時間には私と従業員しかいなかったので、店の奥で店員がなにか作業をしている音以外には、私がグラスをテーブルにことりと置く音しかしなかった。しばらく独り酒を楽しんでいると、カランカランと上階の玄関のベルが鳴り、店内の音が一つ増えた。『ファンタジア』は地下にあり、階段を下ってくるか、あるいは店内に備えてあるエレベーターで降りてくるかの二択だった。だいたいの客は、入店時には階段のほうを選ぶのだが、退店時にはエレベーターに乗り込むのが私にはどこか面白く感じられた。
店に入ってきた人間は、階段のほうを選んだ。カツンカツンとハイヒールの音が聞こえてくる。私は学生の時に購入した腕時計を見やる。たぶん、そうだろうと思ってじっと入り口のほうを眺めていると、長い髪をした女がやってきた(店内は暗かったので、それくらいしかわからなかった)。店員と二言三言会話する声を聞いて、私は待ち合わせ相手だと察した。ツカツカと彼女はこちらにまっすぐ歩いてくる。
「ごめん、響。待った?……って、そのグラスを見ればわかるわね」
「充分独り酒を楽しませてもらったよ。こういう店に来て独りでじっくり味わうのもなかなかどうして悪くない」
「それならよかったわ」
暁が私の正面の席に着くと、テーブルに備えてあるメニュー表を開く。
「ねえ、響。あなたの飲んでいるのは何?」
「沖田総司っていうカクテルだよ」
「新撰組?」
「まあ、そうだろうね。メニューを見てもらえればわかると思うけど、他にも土方十四郎とか、いろいろあるよ」
「へえ、じゃああなたのと同じのにしようかしら」
「君は、酒が強いほうだっけ」
「人並みには。……というか、"艦娘"並みには、か」
「じゃあ、大丈夫だね。味は私が保証するよ」
暁が目を丸くしてまじまじとこちらを見る。
「どうしたんだい」
「いえ、珍しいと思って」
「何が?」
「あなた、そんなに物を褒めることがないでしょ」
「うーん、そうかな。自分では思ったことはないけど」
「きっと、好き嫌いが激しいのよ」
「かもしれないね」
暁は店員に声をかけ、『沖田総司』を注文した。注文を取り終えたバーテンダーが店の奥に行くのを確かめてから、私は話を切り出した。
「それで、話ってなんだい。わざわざこんなところでするようなものなんだから、一応心の準備はしておいたよ」
「そんなに身構えなくてもいいわ。でも、長くなるかもしれないから、お酒が来た後にしましょう」
「承知した」
私が首肯すると、暁は笑みを浮かべる。丸くなったなあ、と思う。昔は一人前のレディなんだから丁重に扱ってねだとか、私が一番お姉ちゃんなんだから妹は私の言うことを聞くものよだとか、唯我独尊を地で行く性格かと思いきや、妹たちだけでなく小さい艦娘の面倒見が良い"お姉さん"だったりと、良くも悪くも尖っていたと言うか、フクザツな性格をしていた。年月は人を変えることをまざまざと実感させられる。
「響も、昔とずいぶん変わったわね」
「……そうだろうか?」
自分では全くそう思わないのだが。自分を客観視するのはむずかしいことだから、もしかしたら気づかないうちに周りからはそう映っていたのかもしれない。
「うん。なんとなくなんだけど」
なんとなくなのかい。
「……それにしても、久しぶりだね。二年ぶりくらいかな、こうして二人だけで飲むのは」
「そのくらいになるかな。雷や電と四人でしゃべるのは、しょっちゅうだけどね」
「あの子たちは、何も変わっていないね。本当に」
「ええ、わたしもそう思う」
暁がうなずく。
「昔から響は手がかからなかったけど、雷と電は今でも大変よ」
「今でも君が世話役みたいなことをやっているのかい?」
「あなたが鎮守府から離れてから、そうなるわね。……それにしても、驚いたわ。あなたが艦娘を辞めたの」
「もう、深海棲艦との戦いも終わったし、戦後復興も見切りがついたから、良い頃合いかなと思ってね」
「相談を受けた時、思わずあなたに詰めかけちゃったわね」
「そうだったね。でも、あの時暁たちが動揺してくれたおかげで、私自身を冷静に見ることができたし、あの時は助かったよ」
「それ、褒めてくれてるの?」
「もちろん」
暁が訝しげにこちらを見つめる。
「とにかく、響、あなた今どんな感じ?うまく生活できてる?」
「問題ないよ。独り暮らしにもちょうど慣れてきた。さみしいと思うこともあるけど、たまにこうして昔の仲間と歓談に興じるだけで充分さ」
「それならいいんだけど。今、たしか大学に行ってるんだよね?何をやっているの?」
「ロシア文学……と言いたいところだけど、最近はロシア哲学のほうにブレているかもしれない。バフチンって聞いたことあるかな。ミハイル・バフチン」
「?聞いたことないわね」
「『ドストエフスキー詩学』……、まあ端的に言えばドストエフスキーの批評家だよ」
「ドストエフスキー……、なんか聞いたことあるような気がする」
「『罪と罰』の著者」
「ああー」
暁は合点がいったような、いっていないような、そんなあいまいな表情をする。
「まあ、そんなことをぼちぼち勉強してるよ」
「楽しくやってるならそれでよかったわ。響、わたしがいなくても大丈夫だってほっとしてる」
「……」
「?どうしたの」
「……いや、なんでもない。それよりも、ほら、"新撰組"の討ち入りだよ」
『沖田総司』が運ばれてくるのが見えたので、会話を中断する。
「こちら、『沖田総司』です。大変アルコール度数が高いですので、必ずお水と合わせてお飲みください」
「ありがとうございます」
暁の言葉に店員は一礼すると、店の奥に消えていった。
「さて、そろそろ本題に入ろうか」
「そうね、うん、そうしましょう」
目の前の暁は、私にではなく、自分に言い聞かせているようだった。
「あのね、響」
暁が言う。
「わたしと一緒に暮らしてみる気はない?」」
私は、あたりを見回した。店の奥に引っ込んでいるバーテンダーが何かを調理している音しか聞こえなかった。
「……暁。君は兵舎に住んでいたんじゃなかったっけ。……まさか」
「そのまさかよ。私、艦娘を辞めることにしたの」
あなたと同じようにね、と暁。
「それで、なんで、辞めることになったんだ」
「実はね、ひと月前に芸能プロダクションからスカウトされたのよ。これ、あっちの名刺」
暁から手渡されたそれを見ると、たしかに私でも知っているような名前の事務所のものだった。
「わたし、小さいころからの夢だったんだけど、一人前のレディーになりたいって」
冗談じゃなかったのか、アレ。
「それで、色々考えたんだけど、この暁には夢があるの、って司令官と雷たちを説得して、勢いのまま、ね」
昔からそうだったが、暁の無鉄砲さはときどき私の目にはひどく眩しく映ることがある。
「……私も、同じかもしれないな」
「どうしたの?」
「暁に影響を受けたのかもしれないって思っただけだよ」
「何それ」
「さあね」
私がごまかすように笑うと、暁は不満げな顔をする。
「……それで、どう?さっきの提案」
私は逡巡した。
「しばらく、考えさせてもらってもいいかい」
「もちろん。むしろ今日ダメだって言われたらどうしようかと思ったわ。独り暮らしは心細いのよ」
暁はそう言うと、目の前のグラスを口元に運ぶ。
「これ、キツイわね」
暁が『沖田総司』を味わう姿をぼんやりと眺める。私たちは、人生にかかわる重要なことを自分で決められる歳にはなったが、しかし向こう見ずになってよい歳としては遅すぎるように感じた。
「ねえ、暁。聞いてもいいかい」
「何?」
「私は、臆病かな」
「あなたが?まさか」
暁は少しおどけたように言うが、私の様子を見て、何かを察したのかもしれない。その蒼い双眸が私の目をまっすぐ見る。
「あなたは臆病なんかじゃない。とっても勇気のある子よ。わたしが保証するわ!」
「……ありがとう」
この子のそばなら安心できるかもしれないな。二人でなら、何とかやっていけるかもしれない。
「決心がついたよ。一緒に暮らそうか」
「え、いいの?急く話でもないし、もっとじっくり考えてもらっても……」
「いや、いいんだ。実は、私も独り暮らしは心細くてね。今住んでいるアパートは単身者用だから、どこか二人で住めるようなところを探してみようよ」
私がそう言うと、暁は呆けたような顔を見せる。
「……響、やっぱり、あなた変わったわね」
「そうかな」
「うん。……でも、わたし、そういうところはキライじゃないわ」
「それは、よかった。生活費だとか、細かい話は今度詰めることにして、今はサシ飲みを楽しもうじゃないか」
「あなた、酔ってる?」
「まさか。こんなもので酔ってたらロシア文学は専攻していないよ」
「何よ、それ」
二人してひとしきり笑った。
「響、読んでみたい本があるの」
「珍しいね。暁はてっきり活字が苦手だと思っていたけど」
「失礼ね。わたしだって本くらい読むわ」
「ごめん。それで、なんて本だい」
「ええと、ドストエフスキーの『罪と罰』だったかな」
「けっこうむずかしい小説だと思うけど、大丈夫かい」
「大丈夫かどうかは、読んでから決めるわ。それに……」
「どうしたの」
「わたしも、響の勉強してること、少しだけ知りたいなって思っただけよ」
「……ありがとう」
「このくらい、当然でしょ。わたしは、一人前のレディーなんだから!」
(文:クリスタリン)