京都大学艦これ同好会 会員の雑記ブログ

京都大学艦これ同好会は、艦これを通じてオタクとの交流を深める緩いコミュニティです。普段はラーメンを食べています。

お願いだから「全部あなたがしてること」なんて言わないでほしい

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お願いだから「全部あなたがしてること」なんて言わないでほしい。



夜更かし。それは、分かっちゃいるけどやめられないもの-

夜更かし。それは、多くの場合望まれずに引き起こるもの-

夜更かし。それは、そうと知っていながら何度も繰り返されるもの-



どうも。「『なんでもバターコーン乗っけておけば北海道っぽくなるやろ』なんて舐めたこと考えてんじゃねえぞ」と思っている北海道出身の京艦同老害部のひとり、おおよどです。函館塩ラーメンにそんなもの乗っけたら許しません。

 

見切り発車で記事作成依頼を引き受け、テーマが決まらないまま提出期限一週間前、結局去年もよりどころにした書籍

國分功一郎・著「中動態の世界 意志と責任の考古学」

から、半章分参考にして書くことにしました。

去年は別の章を参考に「自由と強制」の話を嚙み砕いて、最終的に「できるだけのことはやっておこうね」みたいな結論の偉そうな記事を書いて、ありがたくも載せていただいたので興味のある方は是非。

 

「では今年は?」ということで、導入として「夜更かし」にご登場願いましたところ、とても仲が良いので快諾してくれました。

二十年とか生きていれば、夜更かしの一度や二度くらい経験があるんじゃないかなーと思います。それも、明確な意志を持ってやったのではなく「気づくと毛根時間…」ってなるようなやつ。「YouTube漁ってたら1,2時間たってた…」みたいなそういうやつ。

夜更かししてしまっただけでもいい気分にはならないのに、例えば親から「いつまでも夜更かししてないでさっさと寝なさい」とか言われたときには、なおのこと悪い気分になってしまいます。

そんなときは「どうしてこんな時間まで」という後悔よりも、「自分だってしようと思ってしたわけじゃねーんだよ」といった逆ギレめいた感情のほうが強くなります。そう、当人が望んだ夜更かしなんて滅多に存在しない、ほとんどの場合は何故かしてしまうもの、いやもっと正確に言えば、「自分の身の上に起こってしまうもの」、そう表現されるべきものなのではないでしょうか?そう考えると、「私が夜更かしをする」という一見何の変哲もない文は、実は違和感のカタマリなのではないかと思えてきます(繰り返しますが「夜更かしする意志」がない場合)。

前置きが長くなりましたが(505字)、この記事ではこの違和感をひょっとすると解決するかもしれない言語学史を、できるだけ簡単に紹介したいと思います。

※基本的にラテン語の変遷を軸として解説されている書籍なので、日本語での説明だけでは理解しにくい部分があります。

 

 

I. 文の再構築-原初の構文へ-

改めて、「私が夜更かしする」という文を当人にしっくりくるように書き換えてみましょう。

→「夜更かしが私の身に引き起こる」

「夜更かしする」を一つの動詞として見た場合、書き換え後ではこれが名詞に変わっていることが分かります。

実に回りくどい(そして屁理屈じみた)言い回しになっていますが、実はこれが人類初期の言語で使われていた「名詞的構文」とでも呼ばれるもので、その中心的要素を担っていたのが動作を表す名詞・「動作名詞」でした。

これが言語の初期状態ということは、言い替えると「動詞は最初から存在していたのではなかった」ということです。

「見る」を例にとると、まず「見ること」という動作名詞が先にあり、それが格変化した「見るために」「見ることを」「見ることで」「見ることは」などの意味が、今で言う「活用」を構成するようになり、そうして発生したのが動詞である、ということが明らかになっています。

要約すると、「動詞とは発達した名詞である」ということです。

 

II. 英語学習者が経験する違和感の正体

今では主流となっている「主語+動詞(+~)」の〈動詞的〉構文が比較的新しいものであり、それ以前には動作を現す抽象名詞が文の中心に置かれていました。動作という、無生物的ともいえるものを文の主役に据える、、、どこかで遭遇した覚えがありますね。

そう、”It rains.”等に代表される「無生物主語」あるいは「非人称構文」と呼ばれる「クセモノ」がそれです。英語を学習し始めた段階で「『雨が降る』を英訳せよ」と言われれば、rainを主語に持ってきたほうが自然に感じるのに、突然何者かもわからぬitがその座に就き、rainは動詞に「なり下がって」いる-動詞的構文に慣れ切っている者の眼には、奇妙以外の何者にも映らない現象です。

しかし、動作名詞を主役に据える名詞的構文が先にあった事実を踏まえると、この「非人称構文」は、動詞がその最古の形態(=名詞と完全に切り離されてはいない状態)をとっているものとして違和感なく捉えなおすことができます。

 

III. 人称の獲得とその後の変遷

動作名詞から派生したばかりの動詞は、名詞と完全に切り離されてはいなかった-つまり、動作や出来事は表せても、「誰がやったのか」を指し示せるには至っておらず(まだ「動作・出来事自体」が文の中心であるため)、これは同時に、人称の概念は随分と後になってから発生したものであることを意味します。

人称の概念は、例えば”It rains.”が後に三人称と呼ばれる形態になることに始まり、続けて一人称や二人称が現れることによって完成することとなります。

人称の概念が現れても、その後しばらくは行為者が動作・出来事の過程の内側にいるか、外側にいるかのみが問題になっていましたが、さらに時間が経ち、行為者が自分でやったのかどうかが強く問われるようになりました。この記事の導入部に即して言うなら、「夜更かしが私の身に起こっているかどうか」ではなく「私が夜更かしをしているのかどうか」を問うようになったのです。

言い換えれば、「行為を行為者に帰属させる」、極端には「出来事を所有化する」ように言語が変遷していきました。



本当は、参考書籍のタイトルにもある「中動態」についてもある程度説明したかったのですが、そうすると長くなってしまうので「行為者が動作・出来事の過程の内側にいるか、外側にいるか」という大雑把な概念を提示するに留めておくことにしました。

最後に、言語の歴史を簡単にまとめると、

①「名詞的構文」によって出来事が前面に押し出されていた

②その中心であった「動作名詞」から動詞が発生した

③それは人称の発生に繋がり、最終的に出来事や行為が行為者に帰属されるようになった

という流れになります。

「出来事中心」から「行為者中心」の言語体系に移行したことで、「不可抗力によって『私がしている』」という状況が(少なくとも「私」にとっては)言葉でうまく表現できなくなってしまったのですね。

「行為者中心」に移行する前の、「行為者が動作・出来事の過程の内側にいるか、外側にいるか」を描写していた動詞の態・「中動態」はそんな状況を的確に表現してくれ、しかもなんと日本語の中にもその痕跡が見られるらしいので、興味のある方は

國分功一郎・著「中動態の世界 意志と責任の考古学」

を手に取って読んでみてくださいね(終)

 


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