【『超かぐや姫!』リレー評論】第1走者:占冠
ネタバレ注意!
かぐや姫という御伽噺がある。彼女いわく「かなしくてさみしくい、バッドエンドの物語」だという。それは同時に運命なのだと、千年も前に定められた抗えない掟なのだと──序盤にいろはが語り、かぐやも終には観念して月へと帰る。
「受け入れます、それが運命ならば」と月見ヤチヨもしばしば口にする。伝統文芸をモチーフにした権威を前に、個人の意思を諦める彼女たちの態度はきわめて封建的だ。されども終盤の20分で事態は急変する──「かぐや姫」という旧制度は主人公の意思によって葬り去られることとなる。
1. 超・前近代!
作品を通じて描かれるのは偉大なる科学技術である。仮想現実はより応用され、いろはの趣味を彩り、かぐやの才能を開花させる。あるいはヤチヨの命をアパートの一室で繋ぎ留め、ついにはいろはが科学者となってかぐやを復活させる。
抗うことを諦められてきた「かぐや姫」という封建的特権を超克したのは、いろはの強い意思と科学の力であった。
「科学の進歩は、帝政を不要のものにしてしまう。体制さえ変えていってしまうんだ」
──イクタ・ソローク,『天鏡のアルデラミン』12巻
科学技術によって一人の人間ができることは大幅に増えた。社会は分業化が進んで複雑化し、民衆の力は飛躍した。王権、教会、あるいはそれに比するようないかなる権威も、民衆を無視して専横することが格段に難しくなった。
つまり、ひとりひとりの自由意思が力を持つようになったのである。それが近代であり、いろはが「かぐや姫」を超克することができた理屈そのものである。
いろはは神話を信じない。彼女がついに信じたのは自我と、それを可ならしめる科学技術だった。
封建的権威を信じてきた人々にとっての神が「自由意志・科学」にとって代わられる瞬間である。これは革命であって、140分にわたる当作は近代の訪れとともに幕を閉じる。
2. 弁証法的レスバトル
近代とは大きな物語の時代である。人類は科学による輝かしい前進を信じて、対話を重ねることで、その理想を共有しようとした。そのやり方は「超かぐや姫!」でも随所に描かれている。
いろはは実家を出たい。親はそれを許さない。
→ 学費と生活費をすべて自分で賄うことを条件に一人暮らしを得る。
いろはは意思を貫きたい。兄はそれの邪魔をする。
→ いろはの自我の成長を認めた兄はかぐやを護るために共闘することとなるし、兄を避けていたいろはも兄を頼るようになる。
「かぐや姫」は月に還る。いろははそれを許さない。
→ かぐやは一旦は月に召されるけれど、いろはは科学技術によってかぐやを蘇らせる。
主張が他方の主張と衝突して、アウフヘーベンを起こす。
彼らはいろはに協力し、あまねく止揚がハッピーエンドという一点に収束していく。
弁証法だ!
当作の進行を担っているのはレスバトルの形をした弁証法に他ならない。
異なる立場の二者が対話をすることでひとつの結論を得る。これを世界人口72億人が繰り返せば、なるほど人類は一つの結論にまとまることができるはずだ。
これを実行するには相手の言葉を信用しなければならない。さもなくば殴り合いになってしまう──実際にも世界大戦によって近代が夢見た「大きな物語」はひどく毀損された。人間がもっと互いを信じていれば擦れ違うこともなかったろうに。
3. 文明の前進のために
さて、「超かぐや姫!」の世界ではここが克服されている。
兄や親とのレスバトルの末にも、一方が完全な悪として否定されることはない。レスバを通じて主人公も兄も親も変化して、共に歩調を合わせるようになるのだ。
つまり完全な正義を体現するキャラクターは存在せず、したがってあらゆるテーゼは変化し、アウフヘーベンを通じて最適化され、より多くの登場人物に共有されることになる。そして彼らは手を取り合ってハッピーエンドを目指すのだ、まさに弁証法による文明の前進である。
史実の近代が直面した非合理で醜悪なエゴイズムはこの世界に介在しない。それが端的に示されるのは次のような、現実との決定的な齟齬だろう──仮想空間、配信文化を扱う当作のなかで「アンチ」が一人もいないのだ。Vtuberアンチがいないのである。
互いの善性を前提として、自分のプライドに固執せず、理屈こそを第一に通す。このようなアウフヘーベンによってより筋の通った結論が繰り返され続けるならば──このような大きな物語の末に、人類は唯一の真理に辿り着くことができる。それこそが「神」の正体だ。いろはがハッピーエンドと呼んだものだ。
われら人類が感情の濁流に身を任せず、誰もが善性を信じるならば。
武器を置いて手を取り合って前進することができただろう、失われたわたしたちの物語を取り戻すことができるだろう。
当作の帰結は時代の必然だ。善性の続く限り、アウフヘーベンは止まらない。先行研究を検証し活用し続けることで、文明は加速し続ける。人類の大きな物語は──この物語は続くんだ!
いろはの叫びは近代の遺志そのものである。
「ナギサがもっとみんなを信じていたら。ミカがもっと、ナギサのことを信じていたら。もっとお互いがお互いを深く信じられていたら、こんなことにはならなかった。」
──先生,『ブルーアーカイブ!』エデン条約編3話
ポストモダンいわく、超かぐや姫は駄作である。
なぜなら人間は先述のような善性をあまねくは持ち合わせていないからである。人は時に盲目で感情的で、だから「超かぐや姫!」の物語は不自然だ。
あんな簡単に親と和解できるわけがない、配信者としてトントン拍子で成り上がれるわけがない、「アンチ」のようなどす黒い対話不可能性に阻まれることもない。なるほど現代からしてみれば、人間の実態を無視した薄っぺらい物語に見えるだろう。
当作の価値はそこじゃない!
「超かぐや姫!」が示したのは、わたしたちがとっくに信じなくなってしまった善性の精神だ。すなわち博愛である。
「たしかに愛は嵐を退けぬであろうし、雷が落ちたときにこの機体を守りもせぬ。だが──その全てに屈さぬ力を余に与えるのだ!」
──シャミーユ・キトラ・カトヴァンマニニク,『天鏡のアルデラミン』14巻
冷酷なリアリズムが世界に吹き荒れている。誰もが悪意に怯えて銃を取る。当作に投じられる「現実味がない」という評価の多くもまた唾棄すべき冷笑の産物だ。
当作の根底に横たわる愛の理念こそ、今のわたしたちが見つめ直すべきものだろう。これは現代まれにみる啓蒙専制映画である。その在り方を私は強く尊びたい。
4. おわりに
当作は140分の映画である。ままならない現実までもを描写していては尺が足りない。本当は暗澹たる現世をリアルに描いてこそ、博愛によってそれを乗り越える瞬間がいっそう尊いものになる。
尺の都合で肝心のストーリーが薄っぺらく見えてしまうのは残念なことだ。しかし、もし時間があったならどうだろうか──そんな仮定に応えてくれる作品を私は知っている。