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はじめましての方ははじめまして。そうでない方はこんばんは。78Pです。
突然ですが、「柱島泊地」をご存じでしょうか。そう、艦これのサーバーの一つですね。ちなみに私は柱島に所属しています。
さて太平洋戦争中は連合艦隊の泊地が置かれ、長門型戦艦や扶桑型戦艦、伊勢型戦艦が待機していました。1943年に陸奥が原因不明の爆沈を起こした場所もここです。陸奥に関してはこちらの記事でも紹介しています(この記事も私が書いたものです)。
海軍ゆかりの地を巡るのが趣味の私ですが(Twitterで#京艦同聖地巡礼部 のタグをつけています)、今回訪れることにしました。
そもそも柱島ってどこ?
山口県岩国市の南東、広島湾の入り口にあります。
岩国港から高速船が出ています。ただし本数が少なく、平日の場合岩国7:40発の次は15:30発、しかもその折り返しが島を出る最終(柱島16:15発)になります。そのため平日の場合は7:40一択になるでしょう。*1
土日祝の場合は岩国10:00発、柱島14:15発の便があります。
なお岩国港までは岩国駅または和木駅からバスがありますが、岩国7:40発および柱島午後発の便に接続するバスはありません。*2徒歩だとどちらの駅にも30分前後かかるようです。
どこかに向かう場所の起点としては港にした方がいいでしょう。観光地ではないため案内の標識はあまりありません。港にある最低限の案内図と登山道の標識はありますが、本当に最低限のためうっかり集落の路地に入り込むと迷います。*3
前置きが長くなりましたね。ここから島のレポートです。
海軍見張台跡(+α)~金蔵山三角点
いきなり申し訳ないですが、島内に明確に残る海軍の遺構はこれだけです。「戦艦陸奥英霊の墓」(後述)、およびこの海軍見張台跡周辺の遺構以外海軍にゆかりのある場所は残っていません。島の南部一帯の海域が「柱島泊地」とされており、島への入港は特になかったようです。陸奥が爆沈したのも柱島の南側の海域でした。
ちなみに島の案内図によれば柱島は「赤禰武人ゆかりの地」だそうです。誰やねんこの人…*4
では島自体は軍事上どういう役割を持っていたかと言いますと、呉への空襲を警戒するための監視地点になっていました。柱島に限らず、この付近のあちこちの島にこうした施設が整備されていたようです。
見張台は島の中央部にある金蔵山の頂上付近にあります。柱島港の待合室にある張り紙には「片道1.5km、片道50分」、歩いて10分もかからないところにある登山道入り口にある看板には「片道1100m、片道25分」と出ていますが…どちらが正しいんでしょうね。ちなみに私は入り口から1時間かかりました。ここ最近の私の運動不足を痛感したなんて言えない
登山道を900メートルほど進むと分岐があり、看板の通り右に行けば見張台跡があります。
こちらが見張台跡です。レンガ造りの建物が残っています。中は既に草木が生い茂り、海を臨むがけも見えなくなりつつありました。
見張台の近くには防空用の探照灯が置かれていましたが、これについては残骸すら残っていないようです。
周辺には水槽のようなものの跡があります。兵隊向けの炊事場跡のようです。その他石垣や建物の基礎のようなものが見られますが、解説の看板が一切ないのでどういう施設があったのかは不明です。
先ほどの分岐に戻り左に行くと三角点があり、一帯が開けています。頂上よりも眺望がよく、登山ではこちらが目的地になることが多いようです。
北東~南向きに瀬戸内海が一望できます。正面にうっすらと見える影は松山市の離島、中島でしょうか。霞んでいたので四国本島は見えなかったと思われます。空気が澄んでいたらぼんやり見えるようです。
登山道から見て右側(南)がかつての連合艦隊の一大拠点、「柱島泊地」とされた海域になります。
戦艦陸奥英霊の墓
港に戻り歩くこと15分、ちょうど収穫時期を迎えていたタマネギ畑*5の間の道を通り抜けると堤防と砂浜のある島の南東部の海岸に出ます。
陸奥記念館のある屋代島と柱島の間の海域で陸奥が爆沈していることから、この海域を望む浜辺に慰霊碑が立てられています。碑銘文によれば島の漁協が元々冥福を祈り墓を建立していたようですが、陸奥乗組員の遺族会が建艦50年を記念して慰霊碑を建立したとのことです。
陸奥の進水は1920年であるため、1992年の日付が入ったこの碑は再建されたもののようです。
付近には桟橋のようなものの跡があります。カッターの接岸に使われていたのでしょうか、橋脚だけでは判然としません。
参考
今回の訪問に当たり、こちらを参考にさせていただきました。
柱島島内にそのものに遺構があまり残っていないことと、訪問時間の制約上この2つに絞らざるを得ませんでした。そのため「聖地巡礼」という観点で訪れると拍子抜けするかもしれません。
ちなみに海はとても綺麗です。時間が余った方は陸奥の慰霊碑の近くの浜辺を見ながら、かつての連合艦隊艦艇が浮かんでいた様子を想像してみるといいかもしれません。
余談ですが、帰りの船からは練習艦「かしま」ほか2隻*6が休めている様子を見ることができました。
終わりに
さて、新歓向けということで最後に一つ。
京都大学艦これ同好会は艦これに限らず、色んな話題で日夜駄弁りあっている団体です。学部や学年はもちろん大学の枠を超えて(関西どころか北は北海道から西は福岡まで会員がいますし、社会人の会員もいます)、様々な立場の人と交流できる団体でもあります。ちなみに私は京大生ではありませんし、(わけあって)現在は広島在住のなかオンラインで会の活動に参加しています。というより、会の設立当初からオフラインの交流はもちろんオンラインの交流も非常に盛んなサークルです。
京大生に限らず興味を持たれた方、ぜひとも入会を考えてみてはいかかでしょうか。
本来は先ほどまでで終わりの予定でした。ですが、偶然にもとある場所に行く機会ができたのでもうちょっとこの記事は続きます。
おまけ
ところで、記事冒頭の艦これの情報SSのコメ欄の通り78Pの嫁艦は矢矧です。Lvは…ごめんなさいまだLv136(2021.03.19時点)です。演習でちまちまレベリングをしてるんですがいかんせん実戦に出す機会がないのです…改二まだかなー2年前に予告されたんだけどなー…とか言っていたらついに来ましたねやったー!!!
閑話休題。軍艦には艦内神社というものがあります。
日本では古来船霊信仰と呼ばれるものがあり、航海や海上での仕事の安全を神々に祈願していました。そうした伝統の中で、船内に御神体や神札をお祀りする慣習が生まれました。古くは遣唐使船に天神地祇をお祀りする「神殿」が設けられ、留学僧が祈禱を捧げていた記録が残っています。神道や神々が特定宗教のものではなく、あらゆる宗派を超えて日本人の基本的な心のよりどころとなっていたことも、ここから分かります。近代の大日本帝国海軍において、この慣習は「艦内神社」として発展していきました。軍艦に奉斎された艦内神社は、単に乗組員が参拝するための神棚というレベルにとどまりませんでした。
(引用元。ルビのみ78Pが元の文章に合わせて編集)
海軍の軍艦では、その艦名と縁がある神社から分祀された神棚などを設けて神社としていました。軽巡洋艦(二等巡洋艦)は川の名前から取られていましたので、神社も川沿いにある神社から分祀されていました。*7
矢矧は愛知県などを流れる矢作川*8*9から取られていますので、当然艦内神社も矢作川のほとりにある矢作神社…と言いたいですが、実は阿賀野型軽巡洋艦としての矢矧の艦内神社の記録は残っていないようです。進水が1943年と戦時の機密管理の厳しいさなかでしたから、そもそも記録すらしていないかもしれませんが。
ですが先代である筑摩型防護巡洋艦*10の矢矧はこの矢作神社から分祀されています。慣例に基づけば阿賀野型の矢矧もここから分祀されたと推測できるでしょう。*11
というわけで、ひょんなことから機会ができたので矢作神社に行ってみました。時間の都合上夜の訪問になりましたが、ご容赦ください。
名鉄線の矢作橋駅から歩いて20分ほど、閑静な住宅街の中にあります(Google Mapなどでルート検索すると土手に出るよう案内されますが、土手側に出入り口はありません。南側の住宅街に面した道路に鳥居があります)。
本殿の中には初代矢矧の模型(大正10年に乗組員によって制作されたもの)があるそうです。宮司に事前連絡すれば本殿を開けていただき、模型も見せていただけるそうですが…アポなし訪問の私は解説を見るだけで撤収せざるを得ませんでした。
初代矢矧はスペイン風邪の蔓延により、多くの乗員が亡くなる悲劇があったことで知られていますが*12、境内にある軍艦矢矧の紹介でもそのことは言及されていました。むしろ初代矢矧での病死者への慰霊のために艦内神社が置かれ、後に軍艦に艦内神社を置く慣習となるきっかけとなったようですので(諸説あり)、矢矧と艦内神社を語る上では欠かすことができない事柄と言った方が適切かもしれません。
ところで神社の入り口には「軍艦矢矧ゆかりの神社」という碑があります。
…阿賀野型の矢矧の紹介もありました。もうここが阿賀野型も含めた軍艦矢矧の艦内神社の由来ってことでいいんじゃないですかね。正式な記録が残っていないからダメですかそうですか…。
記事はこれにて本当に以上です。最後まで読んでいただきありがとうございました。
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*1:なお、岩国7:40発は柱島着後すぐ折り返し岩国行きになるため、平日の訪問は事実上岩国7:40~柱島16:15に限られます
*2:岩国7:40発は始発前、柱島14:15発は約50分待ち、柱島16:15発は最終のバスに15分の差で間に合いません
*3:私はそれで14時柱島発のフェリーを逃しました
*4:読みは「あかねたけと」。第三代奇兵隊総督。詳しくはWikipediaにお任せします(丸投げ)
*5:道を通るだけで独特のにおいがします。時折箱詰めされた段ボールを載せた軽トラや原付が通っていました
*6:艦番号が見えなかったので他の2隻は不明
*7:神通など例外あり
*8:蜂須賀小六と木下藤吉郎(豊臣秀吉)が矢作川に架かる橋で出会ったという俗説で知られています…が戦国時代に矢作川に橋はないと言われており後世の創作とされています。
*9:「矢矧」という由来はこの地域に矢を矧ぐ(作る)職人が多かったのが由来であり、後に矢作に書き換えられたとされます。このため河川の名前としては矢作川となっていますが、矢矧川と書いても誤りではありません。なお他に矢矯川、箭作川という表記もあるようです。
*10:World of Warships(WoWs)をご存知の方は日本巡洋艦ツリーTier2のChikumaだと言えばお分かりいただけるでしょうか
*11:海上自衛隊にも艦内神社を祀る慣習はありますが、まだ「やはぎ」の名を冠した艦艇はいません。海上保安庁には「やはぎ」という巡視船がいたのですが、巡視船に艦内神社を祀る慣習はないようです。
*12:船という隔離された空間において感染拡大が止められなかった、という事例として昨年何度か報道されていました