京都大学艦これ同好会 会員の雑記ブログ

京都大学艦これ同好会は、艦これを通じてオタクとの交流を深める緩いコミュニティです。普段はラーメンを食べています。

「自由」についてのお話~学生の居眠りを添えて~

 とても眠い。やはり椅子に座りパソコンの画面に向かうと、どうしても睡魔に襲われてしまようだ。
しかし今は、来たる報告会で配布する資料を作成しなければならない。この眠気はなかなか心地良いものだが、負けてしまうわけにはいかない。断固闘う決意だ。
…だがこの敵はなかなか手強い。こちらの隙につけ入っては、幾度も意識を持っていこうとする。私はそのたびに、その意識を引き戻し、画面に向かい、しかし一分も経たぬ間にまた意識を持っていかれかけ…。
均衡破れぬこの闘い、睡魔に対する私の抵抗をしかし、傍観者はどれほど認知してくれるだろうか。
目を瞑り、重力に逆らえずに頭を擡げている私の姿を見て、人はこう思うだろう。「アイツ、寝とるな」と。
無論、私には眠ろうという意志など微塵もない。だが一方で、「眠っている」のは他でもない私である。これは否定のしようがない。まったく、この奇妙な状況はどうしたものか。そんなややこしいことを考えていたら、意識が…完全……に………

どうも。前回、危うく生協の回し者に成り果てるところだった おおよど です。
前回の記事を書き上げるより前に、実はまったく別の記事を既に書き上げていて、それが会長さんの個人的お気に入りで「ぜひ再登板を」ということで、それと同じテーマでの二度目の投稿になります。(たぶんもう登板しません)

さて、プロローグとして、睡魔と闘う学生の頭の中の様子を覗いてみました。皆さんも飽きるほど居眠りの経験があるのではないでしょうか。私?そんなことはどうでもいいじゃない。
居眠りが「自由」の話にどう関係があるのか、その導入としてまず「能動と受動」について考えてみたいと思います。
大学生にもなって「すること」と「されること」について何を今さら受け取るものがあるのだ…と思うかもしれません。まあ騙されたと思って読んでみてくださいな。

最初に、この記事の参考となった書籍を紹介しておきましょう。


中動態とは何ぞ?と思ったそこのあなた!!時間(個人差あり)とお金(2000円くらい)に余裕があるなら是非読んでみてくださいね。(ちなみに私は母親から「さっぱり理解できん」と言って押し付けられました)

さて、「能動と受動」を念頭にもう一度プロローグを読み返してみると、能動的に眠っているわけではない学生が、表面上は能動的に眠っている、という風に状況を整理することができます。なるほどね、確かに一見奇妙だけど、「睡魔」の存在に着目すれば受動的に眠ってるって言えるじゃん。はい解決なにも奇妙じゃないこの話おしまい!!!
…かと思いきやそんな簡単に終わる話を新歓企画の貴重な枠を借りてするわけもなく。睡魔に着眼点を置くこの解答は、配点5とすれば与えられるのは多くて3点。睡魔を引っ張り出してきたところで満足してしまって、その先さらに考えるべきことまで考察が至らなかったパターンです。着眼点は文句なしなんですけどね。

ではその考えるべきことは何かというと、「睡魔をきっかけとする眠りはすべて受動的か」ということです。
この学生の眠りはなぜ受動的な性質を帯びているのか。その原因は睡魔ではなく、他でもない「睡魔への抵抗意志」の存在であり、逆に言えば、睡魔に抵抗する意志がない場合は眠りは能動的なものになります。
したがって模範解答としては、
「断じて眠るまいとする、睡魔への抵抗意志に反し、実際は眠ってしまっているため、学生の眠りは受動的であると言える。」
あたりが考えられるでしょう。

学生の居眠りを例にとり、能動と受動について再考してみました。
一般的に、能動か受動かは「する/される」という行為の方向で決定され、それに疑問を抱く人は超圧倒的少数派だと思います。(そんな人はもはや参考書籍を読むべき)
しかし、行為・現象が表面的には能動的であっても実態は受動的であり得ること、さらには似た構図であっても能動的な場合と受動的な場合があること、この二点を認識してしまった以上、能動・受動を単純な行為の方向で捉える枠組みはどこか不十分な、そんな気がするのではないかと思います。いやそんな気がしてくれ。

そんな気がしてくれたものとして、能動・受動を捉えなおすときに大いに力になってくれるのが、スピノザが著した『エチカ』です。
この場でこの著作を詳細に扱うことはできないので、初めに紹介した参考書籍が『エチカ』の重要な部分を要約してくれている箇所を二つ引用したいと思います。
 

『それによれば、私は、私のもとに起こる変状が私の力としての本質を十分に表現しているとき、能動的である。私の行為や思考が、私の力としての本質によって説明されうるとき、それらは能動的である。』

『逆に、その個体の本質が外部からの刺激によって圧倒されてしまっている場合には、そこに起こる変状は個体の本質をほとんど表現しておらず、(中略)その個体は受動である。』

 

ここで、変状とは「事物が一定の性質や形態を帯びること」、本質とは「事物が自らを維持するように働く力、または変状する能力」であると考えてください。
と言ってもまだ分かりづらい思うので、睡魔をきっかけとした眠りに当てはめて、変状が「眠りに落ちること」、本質が「いま眠るのを良しとするか否か」であると捉えれば分かってくれるかなと思います。
以上のことから、「自分の行為や思考が自己の本質に基づいていれば能動、そうでなければ受動」と、能動・受動を新たな枠組みで捉えなおすことができました。めでたしめでたし。

さて、ここからが本題です。

スピノザは、やはり『エチカ』の中で、この「能動・受動」を最終的に「自由・強制」という言葉に帰着させているそうです。(そもそも『エチカ』は人間の自由のために書かれた本らしい)
スピノザによれば、「自己の本性の必然性に基づいて行動するものは自由であ」り、したがって自由と対立する強制は、必然性に基づかない、必然性が踏みにじられた状態であると言えます。先述のめでたしな結論とも対応していますね。対応してなかったら困る。

「自由」の辞書的意味も確認しておきましょう。

自由:《freedom》哲学で、消極的には他から強制・拘束・妨害などを受けないことをいい、積極的には自主的、主体的に自己自身の本性に従うことをいう。つまり、「…からの自由」と「…への自由」をさす。
(出典:デジタル大辞泉/小学館

突然ですが、スピノザ的「自由」において、私たちは「完全に自由」たりえるのでしょうか?...答えはNoです。
「完全に自由」とは「完全に能動」であり、「完全に能動」とは「個体の行為や思考が、その個体の力の本質によって『のみ』説明されうる」ことになりますが、「本質」の意味を完全に把握できていないとしても、そのような状況は到底実現不可能であると感覚的に分かるはずです。
私たちの思考や行為はほとんどの場合、周囲の状況や環境から何らかの影響を受けます。仮にそうでないとすると、その場合は私たちの本質や必然性に基づいたものになりますが、それらもやはりどこかの時点で周囲の状況や環境から影響を受けながら出来上がってきたものなので、結局他者からの影響を排除することはできません。
そのため、私たちの思考や行動が、私たちの本質の上に『のみ』成立することは叶いません。

たとえ自分以外の他のどんな要因を排除できたとしても、自分の現在の思考のありよう、そして意志は、過去の自分自身の思考、意志決定、行動の選択によって少なからず規定されていて、規定されている以上は「完全に自由な」「現在の」自分というものは存在しない、と考えます。
ただ「完全」ではなくとも、「自由を完全なものに近づけていく」ことはできます。規定されていたとしても、それが自分にとって心地よいものならば、「自己の本性の必然性が踏みにじられている」とは感じないので、(比較的)自由な状態と言って差し支えないでしょう。自分の思考や行為に対して、規定が及ぼす影響を小さくすることが、自由を「完全なものに近づけていく」ことにつながります。
現在の自分が未来の自分を規定する以上、未来の自分にとって心地良い(と想定される)規定を形成できるように、いま自分が置かれている規定の中で最大限努力することが、「未来の自分を最大限自由にしてあげる」ことだと思います。その努力はそう簡単なものではないかもしれないけれど。

 

 

あとがき


ブログらしからぬ長くて難解で上から目線な文章を、貴重な時間を割いて読んでいただき、誠に誠に有難うございます。
私が最終的に伝えたかったことは、簡単に言うと「ゆくゆく苦しまないように今できることはやってしまおう」ってことです。じゃあ最初からそう言えばいいのに。
ただ、それだけでは新歓記事としてはあまりにも味気なくなってしまうので、前菜として能動・受動の新たな捉え方の紹介をしました。お口に合うといいのだけれど。
終盤に、「完全な自由」は存在しないという話をしましたが、その逆も然り、完全な強制も存在しない、ということも参考書籍では述べられています。いかに強制的な状況に置かれたとしても、その状況に抗うような行動を選択しない/できないだけで、行動の選択肢自体はあるでしょう。選択肢すらない状況が、「完全な強制」であると言えそうです。
「完全な強制」がないということは、能動の場合と同様に「完全な受動」もないということであり、能動と受動の間のスペクトラム上に思考や行動が存在している状態が、書籍のタイトルにもある「中動態」という態と深く関係しています。聞き慣れない態ですが、「見える」や「聞こえる」といった動詞にも、この中動態が見え隠れしているらしいです。

あとがきまで長くなってしまうとよくないのでこの辺で締めたいと思います。
それではみなさん、充実した楽しいバーチャルキャンパスライフを()