一
廊下越しに足音が聞こえる。ぱたぱた、ぺたぺた、そしてカツ、カツ。帰って来たな、と彼は思う。
「夜更かししないで、早く寝るのよ。あなたたち、明日も遠征でしょう」
はーい、と二人分の声。
「ふう…」
がちゃり、と扉を開け、Romaが入ってきた。子供の相手は不得手な彼女だったが、その溜息は姉妹に向けられたものではない。
「おかえり、ローマ。…汚れてるぞ、ほら」
迎えの言葉を掛けながら彼は、
「…ありがと」
布を返し、いつもの顔に戻る。だが、正直さはまだ抜けていない。
「Roma、戻りました。…何です?あまりじろじろ見ないで」
言い終わるよりも早く、窓辺のカウンターへと歩き始めて
ぐいぐいと押されては戻り、押されては戻りを繰り返す扉を開けてやる。すわ、給仕の妖精どもがなだれ込むのと同時に、イタリア料理満載の台車が飛び込んできた。彼はそれをできるだけ丁寧に―とりわけ葡萄酒が自分の制服を汚さないように―受け止め、一息つく。広がるチーズとオリーブ、トマト、色とりどりの香り。床にすっ転んだ妖精がそのさまを怨めしそうに見ているので、彼はピザを少しちぎって呉れてやった。いつも通り。こんなので機嫌が直るのだから安いものだ、と彼は思う。
その後はあわただしく配膳をして、主計妖精たちは帰って行った。バタン。扉を閉める音だけが響く。振り返るとRomaはまだ料理に手を付けず、気高い山猫のような背中で、外の闇を見つめている。彼はその横に腰掛け、ワイン瓶を手に取った。
「お疲れ様。ほら」
「…うん」
傾けると、彼女はグラスで応じた。なみなみと
「ありがとう」
「…どういたしまして」
彼の礼に応じるのもそこそこに、先程よりもずっと勢いをもって注いでいく。おっとっと、と彼がふらつく仕草をしても止まらず、結局グラスには彼女並の、普通よりはかなり多い量が入って
キン、と氷が解け割れるような音を鳴らし、二人は杯を交わした。ひと口だけ含んだ提督を尻目に、Romaはぐいぐいとあおっていく。半分ほどまで来て彼女はようやくグラスを置き、ピザを取り分け始めた。昔はこの日本式の食べ方に眉をひそめてばかりいたが、今はすすんでチーズの糸と格闘するようになっている。提督の方も、絡まったパスタをほぐすのに苦戦していた。これこそ、彼らが大切にしている時間だった。
互いの分を互いに並べ終わると、彼は訊いた。
「今日は、どうだった?
「…別に。いつものことでしょう」
「そうかな」
彼には見当がついていた。先の作戦で飛来した機体。彼女と、彼女が力を借りる者たちに刻まれた悪夢。今となっては形通りたこ焼きにされるのが関の山だが。
「別に気にしてないわよ。任務なんだから」
彼の考えを察して、Romaが呟いた。
「むしろ、絶対に撃ち落としてやろうって思うわ。絶対に」
かすかに震える声。この席でこれは良くないな、と彼は思った。
「そうか。…それは頼もしいな。でも、無理はしないで呉れよ」
お前の代わりは、と彼は言いかけたが、口に出さなかった。圧になりかねないのもそうだが、それは艦娘の性能としての話だろうと無理矢理撥ねつけられるのが目に見えたからだ。そうしてお互い気まずい雰囲気になるか、それを破ろうとして小恥ずかしいことを言う羽目になる。これもいつも通りのことなのだが、何となく、今日はやめておこうと思ったのだった。
二
それから、彼は色んな愚痴を聞いてやった。先程この部屋までついて来ていた小さな姉妹は、入渠時間が過ぎたのに自分にくっつくため長風呂して結局のぼせ気味だったとか、今日は例の四姉妹に引っ張られることもなかったので静かだとか、でも途中響いてきた夜戦軽巡の声は矢張りうるさいとか。満足したのだろうか、彼女が語り終えたあとの静寂を余韻としていると、かすかな寝息がこれに加わってきた。
背中を丸め、子猫のような寝顔。これを知るのは、もしかすると自分だけかもしれない。そんな想像に少し誇りを感じながら彼はしかし、彼女の眼鏡が少し曲がっていたので、起こさないようゆっくりと外してやることにした。
縁の部分をそっとつかみ、右側についているチェーンを引かないようゆっくりと、奥の方へ遠ざける。しかし、チェーンの根元には手が届かなかったので、外さずに、できるだけ身体から離して置くにとどめた。ことり。角砂糖が二つ、コーヒーの底に沈んだような響きのあと、彼は毛布を取りに立ち上がった。
できるだけ静かに1枚を持ってきた彼は、ついでに彼女の眼鏡のチェーンを外してやろうかと思った。しかし、何となく縁起が悪い気がしたのでそれはせず、手に持った毛布をゆっくりと掛けてやると、彼女の眠りを確かめるため、寝顔を覗き込んだ。そして、しばらく動かなかった。
不意にRomaが小さく寝返りを打つ。彼はすんでのところで声をこらえ、我に返る。しまったか。彼はそう思ったが、変わらない寝息がこぼれてきたのを聞いて、胸をなでおろした。
…執務室に響くこの音を知るのは、きっと自分だけだろう。肩で風切るのがそれに加わらないよう気を付けながら彼は、もう1枚、毛布を取りに行った。少し、大きめの毛布を。
三
朝を告げたのはパンの香りだった。目を擦りながら顔を上げると、二つ並べたはずの眼鏡、その片方が消えている。
「Buon giorno. 提督」
振り返ると、Romaが小皿両手に立っていた。昨晩あれほど飲んだのに、涼しい顔をして。
「早く支度してきなさい。…朝食が冷めちゃうわ」
「…ああ、そうだな、うん」
彼は眼鏡をかけ、立ち上がる。が、
「…昨日はごめんなさいね、提督」
「気にするな、いつものことだろう。それに、迷惑だなんて思ってないよ。…朝食、ありがとうな」
言って彼は、朝支度をし洗面所へと向かう。扉を閉めようかと思ったが、どうしても乱暴な音がしそうなのでやめておいた。残されたのは秘書艦と、外から漏れ聞こえるさえずり、そしてどこかの猫の声。Romaは彼の背中を見送ったあと、少しだけ動かなかったが、やがて朝食の準備を再開した。そして、それが終わるとポケットから、小さな布を取り出した。
四
彼が身支度を終えて帰ってきた。改めて挨拶を交わす。
「おはよう、ローマ」
「おはようございます、提督。…はい」
彼女は
「ありがとう」
「…どういたしまして」
拭き終えて、眼鏡を掛け直す。繊細さを取り戻した視界、その真ん中には秘書艦の顔。思わず彼は動きを止めた。
「…何です?あまりじろじろ見ないでくださいね」
いつもの、不機嫌そうな言葉で我に返る。が、
「さあ、朝ご飯にしましょう」
言い終える前にもう、彼女は歩き始めて
「…いい天気ね」
確かに、雲一つない。今日も、まばゆい太陽に照らされた彼女が見られるだろう。そんな新しい一日への期待を持ちつつ彼はこっそりと、その横顔を見つめていた。
(文:末裔)