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「ただいまー」
バタン、と玄関のドアが閉まる音が、廊下を通じてリビングにまで響く。椅子に座った女性が、手元の小説から顔を上げる。横目で時計を見ると、時刻は午後8時を少し過ぎていた。
「Zara姉さまぁ~、今日も遅かったですねぇ~。毎日お疲れ様で~す」
言いながら、開いていたページに栞を挟み、テーブルに置く。
「しょうがないじゃない、秘書艦なんだもの。それよりPola、部屋の中では『姉さま』呼びはやめてって、いつも言ってるでしょ!」
ごめんなさ~い、つい癖で~、と返事をしながら玄関へ行くと、先ほどの怒ったような口調とは裏腹に少し笑っているPolaの『姉』、Zaraがいた。
「それじゃあ改めましてぇ~、おかえりなさい、Zara」
「うん、ただいま、Pola」
着替えのために自室に戻るZaraを尻目に、Polaはリビングに隣接したキッチンへと向かう。2人前のパスタを茹でながら、あらかじめ作っておいたソースを火にかけて温めなおす。
夕飯は必ず姉妹2人で食卓を囲むこと。それは秘書艦業務でZaraの帰りが遅くなっても変わらない、某鎮守府重巡寮イタリア艦娘部屋のルールだった。
「提督ってば、今日も執務室を抜け出してサボってたのよ! 信じられない! もっと上官としての自覚を……ちょっとPola、聞いてる!?」
「聞いてますよ~。でもZara姉さまぁ~、ちょっと飲み過ぎじゃないですか……?」
「あのサボり魔を見張ったり、視察に来たお偉いさんの嫌味を笑顔で聞いたり、もう大変なのよ! ワインでも飲まなきゃやってんれない! 別に明日は非番なんだからいいでしょ? それと『姉さま』は禁止!」
頬や耳を赤らめながら、早口でまくし立てるZara。一息ついたかと思うと、グラスに半分ほど注がれたワインを一気に飲み干す。
「ああっ、勿体ないですよぉZara姉さま~。もっと味わって飲まないと~」
「どんな飲み方をしても私の自由でしょ!? それにPolaまた私のことを姉さまって言った!」
グラスへ更にワインを注ごうとするZaraを必死に制止して、なんとか水を飲ませる。普段ならば一緒に飲んでいるPolaが先に酔いつぶれてしまうのもあって、Zaraがひどく酔うことはとても珍しかった。
(Zaraがあんなに飲むなんて、相当ストレスが溜まっているみたいですね~)
もう一杯水を注いで席に戻ると、Zaraは机に突っ伏していた。念のため呼吸を確認したが、安定している。どうやら眠ってしまったようだ。風邪を引かないように、Polaの部屋から毛布を持ってきてZaraの肩にかける。
(さて、どうしましょう~。片付け……よりも先に、シャワーを浴びましょう~。ちょっと汗をかいてしまいました~)
入浴の準備のため、足音を忍ばせつつリビングを出るPola。その甲斐あってか、Zaraが目覚める気配はなかった。
白い、天井が見える。
床から、天井を見上げている。
左の頬が、じんじんと痛む。
白い天井に、白い照明がついている。
白い照明が、人影を黒く映し出す。
黒い人影が、何事かを叫んでいる。
叫びながら、何かを振りかぶる。
後ろから、別の人影が抱きつく。
振りほどき、人影はこちらに歩み寄る。
恐怖が、足を竦ませる。
諦観が、腕を鈍らせる。
絶望が、瞳を曇らせる。
そして、痛みが、全身を───
(……え?)
開けた視界には、小さく、それでいて大きな背中が映る。
両手を広げ、人影に正面から立ちふさがるのは、
「おねえ、ちゃ……」
声で、目が覚める。常夜灯がぼんやりと部屋全体を照らしている。椅子に座ったまま上体を起こそうとして、鈍い頭痛に顔をしかめる。
(いたた……。ワイン、飲みすぎちゃった)
ぱさ、と体から何かが滑り落ちる感覚。足元を見ると、毛布が落ちていた。どうやら眠っている間にPolaが掛けてくれたもののようだ。
(毛布、Polaに返さないと)
キッチンの方から、明かりが漏れている。毛布を手に持ってそちらに歩いていく。近づくと、カチャカチャと食器のぶつかる音が聞こえてきた。どうやら皿洗いの途中らしい。
「おね、」
先ほどの夢のせいか、思わず喉元まで出かかった言葉を慌てて飲み込む。『それ』は、自分が艦娘に、『Zara』になる時に捨てたはずのものだ。
「あ、Zara。おはようございます~、よく眠れましたかぁ?」
こちらに気づいたPolaが、手は止めずに声をかけてくる。
「おはよう、Pola。ええ、おかげさまでグッスリ」
「そうですかぁ~。安心しましたぁ」
ふにゃりとした笑顔で答えるPola。Zaraも、それにつられて笑顔になる。
「あっ、そうだ。この毛布、ありがとう。Polaがかけてくれたんでしょ?」
「はい~、これくらいお安い御用で~す。その毛布は部屋に持っていくので~、もうちょっとだけ待っててください~」
そう言って、テキパキと皿を拭いては食器棚に入れていくPola。手伝おうか、と言う暇もなく全ての皿を片付け終えてしまった。そのままこちらに歩いてきて、両手をこちらに差し出してくる。
「それじゃあ~、毛布貰いますね~」
「あ、うん。どうぞ」
生返事をしながら毛布を手渡す。部屋に戻るのかと思っていたが、Polaはそのままこちらの顔をじっと覗き込んでいる。
「えっと……Pola? どうしたの?」
「目元に涙の跡がありますぅ。Zara、何かありましたかぁ~?」
その言葉に、慌てて目元を擦るが、Polaに既に気づかれている以上は意味のない行動だった。
「別に、何もなかったわ」
「本当ですかぁ~?」
しばし、お互いの目を見つめ合う2人。先に折れたのはZaraだった。
「……昔の、夢を見たの。まだ向こうにいた、うんと小さい頃の夢を」
ぽつぽつと、Zaraは語る。
「パパが、私の頬をぶったの。理由はもう覚えてないけど。パパはそれで満足せずに、近くにあったワインボトルで私を殴ろうとしたの。ママは止めようとしたけど止められなくて。私、殴られるって思った。だけど……」
そこで、Zaraは言葉を詰まらせる。
「……だけど、なんですかぁ~?」
「……ううん、なんでもない。それじゃあ私、もう寝るね。Buonanotte!」
そう言って、Polaの返事も聞かずに、Zaraは自室へ戻った。
コンコン、とZaraの部屋のドアをノックして、ドア越しに問いかける。
「Zara~、大丈夫ですかぁ~?」
どうにも先ほどの様子が気になり、部屋を訪れたPola。しかし、肝心のZaraからの返事がない。
普段のPolaならば、ここで踵を返して自室に戻っていただろう。だが、今日はそうしなかった。
(Zaraが起きた時に言いかけていたこととぉ、さっきの夢の内容、もしかしてぇ……)
Polaは、もう一度だけドアの向こうに声をかける。
「Zara。今から部屋に入りますねぇ~。もし嫌だったらぁ、そう言ってくださ~い」
返事はない。ノブに手をかけると、抵抗なくドアが開く。鍵は、かかっていなかった。
常夜灯が発する橙色の光に照らされた部屋は、私物が少ないことを考慮してもよく整頓されており、几帳面な性格が見て取れる。その人物は部屋の奥にあるベッドの上に寝転んでいるようだ。
「まったく~、入ってきてほしいならぁ~、初めからそう言えばいいじゃないですかぁ~」
返事はない。しかしながら、眠っている訳でもなさそうだ。クッションを拝借してベッドの横に座る。Zaraは、こちらに背を向けている。
「そのまま聞いてくださいねぇ。Polaはぁ~、Zaraがいつも頑張ってるの、よく知ってます~。それにPola、Zaraにいっぱいいっぱい助けてもらってます~。だから~、たまにはPolaのことを頼ってください~」
少しの間、2人の間を沈黙が流れる。
「……さっきの夢」
Zaraが、口を開く。
「パパも、ママも、真っ黒な人影だった。声が聞こえなかった。その時に初めて気づいたの。私、大嫌いなパパのことも、大好きなママのことも、もう思い出せないんだ、忘れちゃったんだ、って」
変わらずこちらに背を向けて、語る。
「そうしたら、怖くなったの。私が死んだら、私もいつかみんなから忘れられる。Polaが死んだら、私はいつかPolaのことも忘れる。ううん、私はもう、Zaraになる前の私も、Polaになる前の……」
それ以上、Zaraは何も言わなかった。
「Zara」
今度はPolaが喋り始める。
「Polaは~……いいえ、わたしは、ここにいる。あなたも、そこにいる。これから先は分かりません。でも、今、ここに、わたしたち姉妹はいます。だから、大丈夫」
言葉にしているうちに、Pola自身でも何を言いたいのか見失ってしまった。だが、Polaのありのままの言葉は確かにZaraに伝わった。
「Grazie,Pola...」
それだけ言うと、Zaraは寝息を立て始めた。やはり疲れが溜まっていたのだろう。
立ち上がり、Zaraの寝顔をのぞき込む。穏やかな寝顔だ。それを確認したPolaは、部屋を出ようとして、ふと足を止める。
(そういえば~、昔はこんなこともしてました~)
幼い彼女にかけていた、眠る前のおまじない。ベッドに戻ると、眠るZaraの耳元に口を寄せて、一言そっと囁いた。
「Buonanotte, mia graziosa sorellina...」
(文:多々良マワリ)
あとがき
初めましての方は初めまして。多々良マワリです。ここまでお読みいただきありがとうございます。
新歓ブログ企画、ということで、去年に引き続き小説を書かせていただきました。ZaraとPola、イタリア重巡姉妹のお話です。読んでいて「ん?」と引っかかりを覚えた方は、最後のPolaのセリフをGoogle翻訳するといいと思います。
この話、何故だかやたらと難産でネタを思いついてから書き終わるまでに1か月もかかってしまいましただいたいウマ娘のせい。そのせいで締め切りにも間に合わず……。このあとがきを書いているのが締め切りの1時間後です。担当の方、本当に申し訳ございません。
ちなみに同名でpixivに小説を投稿したりしています。よろしければそちらも是非。メインで動かしているTwitterアカウントは別名義ですが……。
それでは、私はこのあたりで。次回以降の記事もお楽しみに。
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