京都大学艦これ同好会 会員の雑記ブログ

京都大学艦これ同好会は、艦これを通じてオタクとの交流を深める緩いコミュニティです。普段はラーメンを食べています。

あなたの名前は?

「私」の記憶は、2種類に分けられる。「生まれたとき」以前の記憶と、それ以降の記憶だ。

 前者はさらに、おおまかに2つに分けられる。「響」の記憶と、「Верный」の記憶だ。

 

 

 


 夢を見た。
 誰かが私の前に立っている。

「あなたの名前は?」

 そう聞いてくる相手の姿はぼやけていて判然としない。

「あなたの名前は?」
「私の、名前は……」

 なんてことのない質問だ。その、はずだ。

「私は、私は……」

 名前を聞かれているだけなのに。なぜか答えられなくて。

「あなたの名前は?」
「あなたの名前は?」
「あなたの名前は?」

 その影がこちらに迫ってきて、ついに——

 


「夢か……」

 無意識のまま飛び起きたのか、気づいたときには体を起こした状態だった。息が若干切れていて、汗で寝間着がまとわりつく。あまり良い気分ではなかった。もっとひどい悪夢も見たことがあるから、最悪とまではいかないが。

 息が整うのをしばらく待ち、私は立ち上がった。


「あなたの名前は?」

 早くも細部を忘れた夢の内容の、唯一鮮明に覚えている部分を脳内で反芻する。

(馬鹿馬鹿しい……)

 私の名前は響、またはВерныйだ。名前が2つある、ただそれだけ。それだけなのだから、何も問題なんてないはずだ。


(シャワーでも浴びてこよう……)

 不快な汗を洗い流すため、私は部屋を出てシャワー室に向かった。

 

 シャワーを終えると、5時半を少し過ぎたところだった。いつも起床時間の6時に起きる私からすればずいぶんな早起きだが、鎮守府では夜でも誰かしらが宿直に就いているし、このくらいの時間に起きてくる人もそれなりにいる。それに、起床ラッパが鳴ってみんなが朝の支度をする時間ですら真っ暗な冬ならさておき、夏真っ盛りのこの時期だと5時半というのは十分に明るい。少なくとも、間違って起きてしまった人に二度寝をやめようと思わせる程度には。

「あら、響じゃない。ずいぶん早いのね。朝のウォーミングアップでもしていたの?」

 部屋に向かう途中、矢矧に遭遇した。以前、彼女から自分は早く起きる方だと聞いたような気がするが、今日も相変わらず早いようだった。既に制服に着替えていて、いかにも準備万端といった様子だ。まだ5時半なのだが。

「いや、そういうわけじゃない。ちょっと早く起きてしまっただけだ」
「そうだったのね。シャワー帰りのようだから、てっきり珍しく朝の走り込みでもしたのかと思ったわ」

 確かに、私が朝にシャワーを浴びるのは珍しい。あまりよくない夢を見たときくらいだ。

「まあ、夏だからね。暑くて起きてしまったから汗を流したくなったんだ」
「なるほど、そういうことなのね」

 今日が夏であることに感謝しつつ、矢矧と別れて部屋に戻る。起床ラッパまで二度寝するような気分でもなく、机に向かってぼんやりすることにした。

 


 結局、やることがなさすぎてラッパが鳴る前に朝の支度を終えてしまったので、少し早めに食堂に行くことにした。今日の献立は味噌汁と焼き魚だ。
 窓口で皿を取り盆に乗せ、そのまま近くの席に着く。味噌汁を飲んでいると、少し遅れてТашкентがやってきた。

「おはよう、Верный。今日は早いね」
「おはよう、Ташкент。いつもよりちょっと早く起きたんだ」

 本当は「ちょっと」どころではないが、そう返す。


 Гангутもそうだが、Ташкентは私のことをВерныйと呼ぶ。まあ、彼女たちにとってはХибики(ヒビキ)という日本語の名前よりロシア語のВерныйという名前の方が耳馴染みがあって言いやすいのだろう。私だって、特段その呼ばれ方を嫌っているわけでもない。むしろ、「信頼できる」あるいは「忠実な」を意味するその名を、私はかなり気に入っている。少なくとも「響」と同じくらいには。

 ……じゃあ、その呼び方が嫌いというわけでもないのに、なぜあんな夢を見たのだろう?

 しばらく思考の海に沈んでいると、彼女の声で現実に引き戻された。

「Верный、今日はぼんやりしてるね。ひょっとして寝不足?」
「……かもしれない。ちょっと早く起きすぎたかな」

 寝不足はよくないよね。そう言う彼女に、私は黙って頷いた。

 

 

 

 8月の海は暑い。潮風が吹いている時間ならまだ多少涼しいが、無風で快晴の酷暑日は地獄というほかない。携行している水筒の中身はみるみるうちに減っていくし、日避けの帽子を被ったところで日本が誇る高温多湿な気候からは逃れようがない。まあ、今はまだ午前だから多少涼しいけれど。

 舞鶴の港を出発すると、間もなく幅数百メートルの狭い湾口を抜ける。そのまま北へ向かえば、左手後方には天橋立がうっすらと見えてくる。前方には舟屋で有名な伊根の町。舞鶴周辺の海域は幾度も通っているから、この光景は地形から町の位置に至るまで見慣れたものだ。

 今日の午前は私と暁に近海哨戒の当番が回ってきていた。深海棲艦が湧いていないか——奴らは本当に「湧いている」としか思えないような出現の仕方をする——双眼鏡片手に二人で水平線まで目を凝らす。

「今日の海は平和のようね。さしもの深海棲艦も暁に恐れをなしたのかしら」
「暁は今日も元気だね。確かに深海棲艦はいないようだけど」

 同時並行で哨戒に出ている偵察機からも、海上には敵見当たらずの報告が上がっている。対潜警戒も駆逐艦の仕事だが、ソナーにも敵潜らしき反応なし。どうやら今日の舞鶴近海は本当に平穏のようだ。

 舞鶴から北上し伊根や経ヶ岬灯台を左手に眺め針路を東に変更、若狭湾を横断しながら越前海岸の方へ向かい、その後敦賀の街を遠巻きに眺めながら帰投。今日の哨戒ルートはそういう予定だ。全体で200km弱、時間にして4時間ほど。

「ねえ響、響のいたウラジオストクってこの海の向こうなのよね?」

 暁が北の方を見ながらそう聞いた。

「そうだね、ここから1000kmも離れてない」
「響がいた頃はどんな感じだった?」
「とにかく静かだったね。ウラジオストクは軍港で閉鎖都市だったから。観光客が大挙して訪れている今の様子をテレビで見ていると、本当に別の街だとしか思えない」

 Верныйの記憶を思い出しつつ、そう答える。

「まあ、あそこにいたのは響というよりВерныйだったけど」
「なにそれ、変なの」
「変、かな」
「前からそうだったけど、響は変なところにこだわるわよね。どっちも響なのは変わらないじゃない」
「……そういうものかな」
「そうよ」

 それきり暁は黙ってしまった。私も黙って前を向く。

 地平線の向こうにある()の地に目を凝らそうとしたが、霞んで地平線すら見えなかった。

 

 


 正午を少し過ぎた頃、私たちは鎮守府に帰投した。結局、敵影は一切発見できなかった。2人とも見落としたとは思えないから、近海にはいなかったのだろう。そのまま(おか)に上がり食堂へ向かう。食堂に入った瞬間、カレーの匂いが鼻を刺激した。そういえば今日は金曜日だった。金曜日恒例のカレーは曜日感覚を取り戻させるという使命を無事果たしたというわけだ。
 なお、金曜日のカレーという伝統はさほど古くなく戦後に生まれたものだし、曜日感覚云々は後付けの理由らしい。もっとも、後付けでも今となってはれっきとした理由の1つには違いないが。

「いやあ、ここのカレーライスは相変わらず美味いな」

 Гангутがスプーン片手にそう話しかけてくるのを聞きながら、彼女の向かいに腰を下ろす。

「カレーが美味しくない鎮守府なんて存在しないからね」
「確かにそうかもしれない。……Верныйが寝不足だとТашкентが言っていたが、その様子だと大丈夫そうだな」
「哨戒に出ていれば寝不足であろうが嫌でも目が冴えるさ。万が一ぼんやりしていたら、その隙にやられてしまうからね」
「それもそうか」

 カレーをスプーンですくって口に入れる。うちの間宮と伊良湖は料理の腕がいいのだろう、相変わらずの美味だ。毎週食べても全く飽きないのだから。

 しばらく黙って食べていると、目の前の彼女が私同様に2つの名前を持つ艦娘ということに気付いた。

 革命と動乱で何もかも変わった祖国。ワルシャワからウラジオストクまでを統治していたツァーリは銃弾に(たお)れた。皇帝とその家族が銃殺された街——皮肉にも、その街はかつての女帝の名を冠していた——には、彼らの処刑に関わったと目されている革命家にちなんだ名が新たにつけられた。彼女の母港では彼女の姉妹艦の水兵が革命ロシア最後の大規模な反乱を起こし、おびただしい量の血が流れた。聖ペテロの名を冠する彼女の生まれ故郷は、革命の指導者の名前を冠するようになった。そして何よりも、彼女自身には「十月革命」という、ボリシェヴィキにとって唯一無二の意味を持つ名前が与えられた。

「そういえば、Гангутにも名前が2つあるよね」
「それはГангутとОктябрьская(オクチャブリスカ) Революция(レヴォリューツィヤ)ということか?」
「そう。それで、名前が2つあることで何か不安とか揺らぎとかを感じたことはあるのかな、って。特に、革命を経験した者として十月革命という名前には思うところがあるんじゃないかと」
「ううん……。もちろん思うところはあるが、だからといって不安になったりすることはないな。名前が2つあろうが私は私だ。まあ、名前としてはОктябрьская РеволюцияよりはГангутの方が好きだが。そういうВерныйは不安になったことがあるのか?」
「私も特にないつもりだったんだけど……。妙な夢を見てしまって」

 今朝の夢の内容を覚えている部分だけかいつまんで話す。それを聞いたГангутは腕を組みながら首を傾げた。

「それは確かに妙な夢だな。心当たりは?」
「相手が誰か分からなかったから、どっちで名乗ればいいのか分からなかった……とか」
「ああ、なるほど。思えば、Верныйと名乗っているのは私たちと初めて会ったとき以外あまり見たことがないな」
「私をВерныйと呼ぶのはソ連の艦娘だけだから。どっちの名前も好きなんだけど。でも、たぶんそれだけじゃない気がする」
「他にも心当たりが?」

 伊根沖で暁と交わした会話を思い出す。
 「響」の記憶は舞鶴に始まり、日本近海、中国東北部の沿岸、東南アジア、アリューシャン列島、南洋諸島と目まぐるしく何度も移り変わり、終戦、外地各地域からの復員輸送を経て横須賀で1年ほどの安寧を噛み締めた後、やがて日本海、ナホトカ、そしてウラジオストクで終わる。「Верный」の記憶はウラジオストクで始まり、Декабрист(デカブリスト)という別名を授かり、そのままウラジオストクで平穏のまま終わる。
 名前も場所も、何もかも違う2つの記憶。一方はひたすらに激しく、悲しみと叫びに彩られていて、もう一方はひたすらに穏やかで。自分の2つの名前それぞれに紐付けられたあまりに対照的な記憶にどう向き合うか、私自身も決めかねていた節があるように思う。

「艦娘なら『生まれる前』の記憶があるのは普通だけど、私の場合は記憶が『響』と『Верный』の2つあるような感覚なんだ。自分の2つの名前がそれぞれ別々の記憶に関係しているから、それに引きずられて、『響』としての私と『Верный』としての私が別々に存在するような感覚になっていたのかもね。そんなことは別にないのに」
「なるほどな。結局、他の艦娘より事情がちょっと複雑だからちょっと複雑なことになってるってことだろ?」
「……まあ、乱暴にまとめたらその通りだけど」

 それは、あまりに乱暴すぎやしないだろうか。そう思ったのが顔に出たのか、私の疑問に答えるようにГангутが話し始めた。

「Верныйはちょっと特殊だが、どっちにしろ『自分とは誰か、この記憶は何か』ということは艦娘ならけっこうな割合で悩むもんだ。それは知ってるだろ?」
「もちろん」

 アイデンティティ・クライシス、自己同一性の喪失。ヒトの若者によく見られるというそれは、艦娘にもしばしば見られるものだ。いや、ヒトと違って艦娘には生まれた瞬間から「前世」の記憶があるから、むしろヒトよりも起こりやすのかもしれない。

「そういうときはあまり深く考えすぎない方がいい。もちろん、深刻な状態ならカウンセラーを呼んでもらった方がいいが、だいたいの場合は考えすぎなければ大丈夫だ」
「私が『ちょっと特殊』でも?」
「さっき、自分で言ってただろう。『2つの記憶に引きずられて、自分が2つあるような感覚になっていた』って。それが分かってるなら、たぶん大丈夫だろう。2つの名前、1つの自分ってな」
「……確かに。ありがとうГангут、だいぶ気が楽になったよ」
「どういたしまして。まあ、私は何もしていないが」
「そうだったっけ?」
「ああ、Верныйの話を聞いただけだ」
「いや、それでも助かったよ。話しているうちに考えがまとまってきたんだから」

 まだ少し残っていたカレーをかきこみ、私は立ち上がった。既に食べ終わっていたГангутも同時に立ち上がる。

「ごちそうさま。じゃあ、私は午後の遠征の準備をしてくるから。Гангутの予定は?」
「私は砲撃と雷撃の訓練だ。大丈夫とは思うが、気をつけてな」
「……午後は一段と暑そうだね」
「まったくだ」

 Гангутは苦笑しながらそう言った。

 食堂の窓から見える舞鶴の海は、強烈に自己主張する太陽に照らされ輝いていた。今から一番暑い時間帯がやってくる。
 それでも、不思議と憂鬱さは感じなかった。

 


 我思う、故に我あり。
 名前がどうであろうと、記憶がいくつかあろうと、あるいは確かなことが何一つなかったとしても。
 今ここで考えている「私」は、間違いなくここにいるのだから。

 

 

 

 


 夢を見た。
 誰かが私の前に立っている。

「あなたの名前は?」

 そう聞いてくる相手の姿はぼやけていて判然としない。

「あなたの名前は?」

 なんてことのない質問だ。私は目の前の誰かをまっすぐ見据えて答えた。

「私の名前は響、そしてВерный」

 目の前の誰かが、微かに笑ったような気がした。

 


(文:ふぁぼん)